1 学会主催行事

【市民シンポジウム】
「次世代にどのような社会を贈るのか?」開催の経緯一覧

日本生物地理学会の創設者である渡瀬庄三郎博士、蜂須賀正氏侯爵の精神を尊び、未来の人類に生かすべく継続開催している日本生物地理学会主催市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか?」(敬称略,肩書きは当時のもの)




【第75回大会講演要旨】

市民シンポジウム「次世代にどのような社会を送るのか?」



趣旨説明:「種問題(生物学)から見える人類の道


利他が人類を救うー相模原障害者殺傷事件を発端に、鬼滅の刃を切り口に
森中 定治(日本生物地理学会、放送大学埼玉SC)

   昭和3年(1928年)、日本生物地理学会は鳥類学者の蜂須賀正氏博士と、当時生物地理学の第一人者であった渡瀬庄三郎教授(東京大学理学部)によって、山階芳麿博士、黒田長禮博士ら当時の著名な鳥類学者の協力のもとに設立されました。
   蜂須賀正氏は、平成15年(2003年)に行われた生誕百年記念シンポジウムにおいて“型破りの人”との評がなされました。自己の信念と哲学に基づいて時代を駆け抜けた人でした。渡瀬庄三郎は、区系生物地理学における旧北区と東洋区の境界を示す“渡瀬線”によって著名であり、特定外来生物として近年問題になるジャワマングースを移入しましたが、当時困っていた野鼠やハブの被害を防ぐために生物学の知識を社会に役立てようと積極的に行動した強いパワーの持ち主でありました。日本生物地理学会創設者のこのような人となりを考え、学問を専門家の枠に留まることなく、人類社会に活かすことができればと思います。生物学に関する研究発表やシンポジウムの他に、この一般公開市民シンポジウムをもつのはこのような理由からです。
   私自身は、チョウ類、特に東洋区(アジア大陸)からウォーラシア(香料諸島)を挟んでオーストラリア区に生息する多様な色彩と模様を持つカザリシロチョウ(Delias属)を材料として最初は分類学的研究、それから形態形質を用いた系統学的研究、そして分子データを用いた系統学研究を行いました。昨年2017年には、英国リンネ学会の学術雑誌にカザリシロチョウの中のベニモンシロチョウグループの、分子生物学的解析によって見出されたウォーラシアへの去来に関する生物地理の論文が掲載されました。分類学にしても系統学にしても扱う単位が “種”です。種とは何かと言うテーマは深い思考が必要であり、私にとってはとても興味深く強い関心を持ちました。そしてその思考から得られた結論が、現代人類が迎えた大きな危機を乗り越えるための一つの道具になることを見出しました。
   2019年11月9日、人間の分断の象徴とも言うべきベルリンの壁が崩壊して、ちょうど30年が経ちました。「自由主義は多くの難題を抱え、民主主義も完全ではない。しかし、私たちは人を閉じ込める壁を作ったりはしない」と、1963年に西ベルリン市民に向かってケネディ大統領(米国)が演説しました。しかし、ソ連や東ドイツの共産主義に対して自由主義の素晴らしさを謳い上げたその米国は、今になってメキシコと自国との境に巨大な壁を作っています。
   ベルリンの壁崩壊30年の記念式典でドイツのメルケル首相は、「壁の崩壊は、人々を分断する壁がいかに高くあろうとも、それを打ち破ることができる証だ」と演説しました。しかし、ベルリンの壁崩壊30年後のまさに今、一つの欧州を実現した欧州連合(EU)において、長さの総計がなんとベルリンの壁の6倍にもなる難民流入防止用フェンス(壁)が造られました。

   我々の社会、人類社会のあり方に善悪はありません。我々個人はそれぞれが分離し、それぞれに独立した考え方、主張、理念・理想をもちます。それは個々の個人の価値観であって、相互に個人の価値観を尊重するが故に自由主義、民主主義が成立します。だからどのような社会にするかは、その時を生きる人の多数決になります。神ならぬ人間の持つ知識は非対称で不完全です。すなわち、ある人は知っていても他の人は知らないということは普通です。またフェイクニュースを信じたり、詐欺に引っかかることはオレオレ詐欺がいつまでもなくならないことを考えれば容易に理解できます。間違い、誤解、偏見、好き嫌い・・、人類からこれらがなくなることはないでしょう。こういった不完全な情報と感情の統合によって人間は自らの行動を決めます。
   しかし、逆に多くの人がアプリオリ(先験的)に望ましいと考えること、願うことがあります。アプリオリとは、あれこれ損得を考え理性的に計算した結果、〇〇が正しいと決めることではありません。多くの人の心に、理由なくそれが正しい、そうしたいという願い、心の中に自然に湧き上がる願望です。現代社会を形作るその基礎となっている大前提、社会規範のことです。具体的に言えば、現在の日本国憲法に規定された基本的人権です。 誰もが幸福になる権利を持ち、誰もが平等であり、誰もが差別されることがなく、
   誰もが生きる権利、教育を受ける権利を持つことです。誰もが人間らしい生活を通して幸せになる権利です。こういう理念は、多くの人が共有し、その理由など考えるまでもなく“当たり前だ”と誰もが思います。多数決を取れば、誰もが迷うことなく賛成するから盤石なのです。
   しかし、我々個人はそれぞれが離れた異なる存在であり、異なる意見を持っています。自分に全く無関係の、赤の他人の生存のために自分の所有する富を提供したくないとか、この国は同じ考え方だからこの国の人は助けたいが、あの国は嫌いだからそこの人は助けたくないとか、このように考える人が大多数になったらどうでしょうか。誰もが当たり前として疑うことのなかった基本的人権を、そう思わない人が過半数になったらどうなるでしょうか。
   所与の大前提として現代人の心に湧き上がる基本的人権が、なぜそうのか、それが一体どこから来るのか、我々はそれを考えてこなかったと思います。そんなことは当り前であり考えるまでもない、あるいは仮にそうではないと思ってもそれは口に出せることではないが故に、我々人類はその点について思考を深めませんでした。ごく少数の超富裕者の所有する富が、地球上の全人間の半数にも及ぶ貧困者の持つ富の合計を超えてさらに拡大する現代社会では、“基本的人権は全人類における所与の大前提ではない”と考える人が、水面下で大きく拡大していることとパッケージでないのかと、私にはそのように思われます。

   現代人の誰もが理由なく正しいと考える、心から湧き上がる基本的人権は、人間が進化の過程で身につけたものだとすれば分かり易いでしょう。人類はチンパンジーの祖先と袂を分かった600万年前から現代まで、そのほとんどが狩猟採集生活の時代でした。一人で生きていくことはほぼできなかったでしょう。厳しい自然環境の中で集団で暮らすことによってのみ生命を永らえてきたのでしょう。だから仲間外れにされることは死を意味しました。つまり仲間外れの人間というものは誰もいないのです。集団への強い尊重の意識と敵味方の意識が生まれたのでしょう。俺たちとあいつら、つまり味方と敵を峻別し、それに従わないものには厳しい罰。そういうしきたりをなぜ作ったのかと問われても答えはないのです。そのような指向を持った集団ゆえに現代まで生命を永らえてきたと考えると理解がし易いのです。それは進化心理学という学問になっています。そしてその集団内では、曖昧であった自我がより明確になるにつれて個人間の競争が進み、その競争に打ち勝った個人が持つ遺伝子が次世代へと伝わって、その遺伝子を持つ人たちがやはり現代まで生命を永らえてきたように思います。なぜ他人と争うのか、他人との競争に勝とうとするのか、このような人類の歴史の中でその意識が生まれ育ってきたのだと思います。ゆえに、個人がより裕福になろうとする指向性は程度の差はあれ誰にもあり、裕福な人が財力、知力、持てる力の全てを駆使してより裕福になろうとするその意思も存在することが分かっていただけると思います。こういった人類が生物として持っている特性をよく知り、それを踏まえることは今後人類はどういう道を選ぶのか、どう存続していくことが望ましいのか、それを考えるための大きな一つの要素だと、私は思います。
   さらには、そういった狩猟採集生活時代における自然選択(生と死)によって自然発生的に人類の指向性が生じたとする説明は、集団間における敵味方の枠を超えた人類愛については説明が難しいのです。人間にはもう一つ、それは人間が有性生殖生物であること、つまり人間の持つ生命の仕組み、人間の持つ生命の在り方それ自体から湧き出てくる指向性があると私は考えます。無性生殖生物と比べて有性生殖生物だけに備わった指向性もあれば、有性生殖生物の中でも著しく大きな頭脳を持った人間だけに授かった固有の指向性もあるでしょう。そしてそれら総ての指向性が一人の人間の中で協力し、あるいは相克しています。

   現代の日本国憲法に記された基本的人権は、自然科学的なバックボーンを持ちます。まずこれを理解することが重要です。現代の人類が普遍的に持つ理念は生物学的な視点からの検討が必要です。個人の持つ価値観、好悪、嗜好、理想、美意識、生きてきた環境など・・、それら個人の生きてきた歴史の全てによって各個人が成り立ち、その各個人の合意が人間社会の道です。生物学から得られたデータや知見、発見などに基づく理性的な計算によって人間の持つべき正しい価値観や人間社会のあるべき道が決定されるものではありません。生物学(自然科学)から得られるものは、あくまで個人がどう生きるか、その思考を助けるための一つの要素です。しかし、それは現代の人類にとっては、とても大きな意味を持つと私は考えます。

   人間はどのように生きるべきか。どのような社会を作るべきか。
   〇〇すべきかという問いに対して自然科学は他の学問に比べて受け身的というか、センシティブのように思います。ダーウィンの自然選択説(生物学)が、人間社会はつまりは血みどろの弱肉強食の世界であるかのように誤解されて用いられ、その都度生物学者がそれを打ち消してはきました。しかしながら現代においても同じようなミスが繰り返され、その度に生物学者や関係諸団体がその誤りを糾し抗議の声を上げます。修正されるべきは修正され現代では一応は収まったように見えますが、人間のあらゆる行動は生物学的な基礎を持つというウィルソンの提唱した社会生物学が、道徳や倫理、美しい理念を描く社会学者のみならず生物学者間でも大きな論争を引き起こしました。このような紆余曲折の経緯の中で、結果として人類がどのような未来を持つべきなのか、未来社会のあるべき姿の探索は社会学や、哲学や、心理学など社会科学の独壇場となっているように私は感じます。未来の人間社会のあるべき姿について生物学者の視点からアクティブに論じるのは稀のように思います。人間行動を研究対象とする進化心理学などは、それを打ち破る方向にあると思いますが、種々の社会学者を招いて具体的な人間社会のあり方にまで踏み込むような積極的な働きかけは、今のところあまり感じられません。
   人を殺すなとか、他人に迷惑をかけるなとか、人間はこうあるべきなどという道徳や倫理は人間の本源的、普遍的な美意識に基づいており、その美意識は生物学的な基盤を持ち、それぞれの人間の心の中に湧き出てきます。どういう時にあるいはどういう相克があって湧き出てくるのか、それを社会科学に携わる者と自然科学に携わる者が積極的に手を取りあって、一緒に考えることができればと私は思います。それがこれからの学問の道であり、また教育へ展開するための大きい一面だと、私は考えます。

   今回は、平成28年(2016年)に、19人が刺殺され26人が重軽傷を負った相模原障害者殺傷事件に深い関心を持ち、ずっとその裁判を傍聴され、また犯人との面談も何度も行なって『相模原事件・裁判傍聴記』を上梓された作家・活動家の雨宮処凛さんをお招きし、幾島淑美さん(綾瀬川を愛する会初代代表)のインタビューでこの凄惨な事件についてお話しいただきます。
   そして、この事件が現代社会において何を示しているのか。それを、私自身が強い関心を持った“種問題”に基づいて話を展開します。そして、それがなぜ人間の持つ利己性と利他性につながるのか。昨年秋に公開されたアニメ映画『鬼滅の刃』が昨年末の数ヶ月の間に、なぜ観客数2400万人、実写映画も含めて歴代興収1位になったのか、話は全てにつながっていきます。
この趣旨説明に、さらに私が昨年末にまとめた以下の2点を添付いたします。

   添付資料1.雨宮処凛著『相模原事件・傍聴記』を拝読して(森中 2020)
   添付資料2.映画「鬼滅の刃」と利他性について思う(森中 2020)

   このシンポジウムにおいて、コメンテーターとして様々の分野の先生をお迎えしています。
生物学者であり認知行動学者の岡ノ谷一夫先生(東京大学大学院教授)、 生物学者であり著書に『利他学』を持つ小田亮先生(名古屋工業大学教授)、 精神科医であり批評家の斎藤環先生(筑波大学教授)、 社会問題を広く扱ってこられた月刊『創』の篠田博之編集長、 都市社会工学者であり、心理学の視点から『思いやりはどこから来るの?利他性の心理と行動』の共同執筆者である藤井聡先生(京都大学教授)、 理論経済学者であり著書に“人は生きているだけで価値がある!”と見出しのつけられた『左翼の逆襲 社会破壊に屈しないための経済学』を持つ松尾匡先生(立命館大学)、 社会学者であり映画評論家でもある宮台真司先生(東京都立大学教授)、 社会派の映画監督であり作家の森達也先生(明治大学特任教授)。

   本日のお話と自然科学、社会科学の両方を含む多様な分野に及ぶ先生からいただくご意見が、人類社会の夜明けに射す光となることを私は願います。

(添付資料1)雨宮処凛著『相模原事件・傍聴記』を拝読して

2020年11月20日 日本生物地理学会 森中 定治

   私はこの著作を、この事件の全貌について、非常に詳しく臨場感を持って読むことができました。犯人の植松聖の人となりと、この事件の全貌を知るためには、まるで宝庫のような本でした。 大きなポイントは以下の2点だと考えます。 1 犯人の植松聖はどういう人間なのか? 2 この事件が持つ意味は何なのか?
   
   まず1植松聖の人間性についてですが、いわゆる犯罪者、殺人者のような粗暴で冷酷な人間とはとても思えませんでした。他の人間と一緒に社会生活を営んでいくにふさわしいポテンシャルを持った、いわゆる普通の人だと、私は思いました。
   では、彼は雨宮さんや、ご著者の中で対談された渡辺さん、私(森中)などと何が違うのでしょうか。
   彼は心を閉じるのが上手いのです。
   誰でも心を閉じるときはあるのですが、その閉じ方が完全・緻密でしかも自動的(無意識)にそれができる能力(才能)を持っていると思いました。
   それはご著書の隅々に出てきます。例えば、「『あなたは間違っている』などと言われると、植松被告はスッと感情に蓋をするのが分かった。p119」、「渡辺 途中からイライラして、聞く耳を持たなくなりますね。シャッターを下ろしますね。p213」、そして心を閉じてしまうと自分の感情に揺さぶられることがないので、相手を冷静に見ることができるんですね。私などは、相手の反応で自分の感情が取り乱されるので、とてもそんなことできませんが・・。 だから、相手の瞬間的な怒りを呼びこまないというか、相手が言い淀んでしまうような言葉を出すことができます。逆に言えば、感情的な「売り言葉に買い言葉で返す」ということがないんです。すごい才能です!
   例えば、「尾野 それを奪ったことについてどう思いますか? 植松 ・・・長年育てた母親のことを思うといたたまれません。p130」、「『なんでそんなことをするの?・・・・・』・・・・『いい人なんだなと思いました』p141」いい人!! 自分が詰問されているのに、その相手を褒めるんです。こんな芸当、私にはできません。彼は少しも相手を褒めてなんかいないんです。彼の冷静な頭脳が、そう言い返せば相手が怯んで怒りの感情が削がれると、ただそう判断しただけなんだと思います。すごい能力です。
   だから殺人の後、平気でエクレアを食べる(p207)ことができるんです。裁判の時の相手とのやりとりの時も、殺人の時も、心を閉ざしていると考えれば、平気でエクレアを食べることができるんだと思います。異常でもなんでもないと、私は思います。
   この植松の特徴は、私に千葉県での心愛ちゃんを虐待で殺した栗原容疑者が重なります。全く同じだと感じます。児相などから子を取り返すのに、相手が返さざるを得ないようなことを言います。「可愛い我が子を返してください」なんて言いません。心を閉し、極端に冷静だからどう言えば相手が返さざるを得ないか、その点だけに集中できるんです。p198で渡辺さんが言っているように、アスペルガーだと私も思います。一種の自閉症だと思います。
   こういう才能を持った人は、人類史において相応の役目を果たしてきたと思います。ちくま学芸文庫の『戦争における「人殺し」の心理学』という本を読まれましたか。物凄い本です。もしまだなら読まれることをお勧めします。
   一般には、人間は恨みも何もない他人を殺すことはできません。泣き叫ぶ行為を見て自分の感情がおかしくなるからです。自分の感情を閉ざせる人の出番です。人類は、太古の昔、部族と部族が争った。男は皆殺し、女と子どもは奴隷か家畜・・。そんな時代に、何の恨みもなくても、敵を皆殺しにせねばならなかった。そんな時に重宝されたわけです。なぜなら他の人にはできず、またそれが必要だったからです。江戸時代の首切り役人・・。ユダヤ人をガス室に送ったアイヒマン・・。彼はそれが仕事だったというけれど、自分の心を閉ざすという特技があったからこそ、それができたのでしょう。心を閉ざせない人がやれば、気が狂うか物凄い精神障害を負ったと思います。PTSDです。ベトナム戦争で多くの米兵がPTSDになりました。よく理解できます。
   
   で、彼はなぜ障害者の大量殺戮を行ったのでしょうか。 心を閉ざす能力だけで、大量殺戮はできません。それにはそれ相応の理由が必要です。彼には確信(信念)があります。ご著者の中にも、たくさん出てきますが、羨みやルサンチマン、どろどろとした私怨が感じられないとあります(p19、p186、p208)が、私怨ではないと思います。優生思想だとか、いろんなことが言われるし、また彼自身も矛盾したことを言っているので、彼の言葉だけを追っても矛盾にぶつかります。
   要は、「それこそ間違っている。不幸な人がいっぱいいるのに、涎を垂らしている人が生きているのがおかしい。p113」ということです。分かり易くそのエッセンスを言えば、『涎を垂らしている人(つまり自分で生きていけない人)、見ず知らずの人を私のお金で食べさせることは、私は許せない!』ということです。 彼は、生きる能力のない人や障害者はこの世に生きる権利がないとは言っていません。つまり優生思想の持ち主ではないと思います。ここを多くの有識者は誤解していると思います。彼自身もよく分かっていないのかもしれません。「衆議院議長への手紙 私の目標は・・・・・保護者の同意を得て安楽死できる世界です。p21」と衆議院議長への手紙にはっきり書いています。保護者の同意を得てということは、保護者が自宅に引き取って私が育てるから文句はないでしょ!と言えばそれでOKなのです。「家族の同意があればいいと思いました。本人の意思疎通が取れないので。安楽死を望まない・・・。お金と時間が支給されている限り、違うと思います。p86」も同じです。家族が、「殺すのは嫌だ。殺さないで」と言えば彼は殺しません。殺人は、相手が他人のお金と時間を使う限りにおいてです。
   私は面識はありませんが、この事件の評者として最首さんがよく出てきます。植松聖にも何度も手紙を書いていらっしゃる様です。彼には星子さんというダウン症の子どもがいます。彼は、このダウン症の障害者によって自分が生きる目的を知ったというようなことを話されます。では、彼は、赤の他人のダウン症の子どもにも、同じ思いで自分の時間とお金を注ぎ込むでしょうか。植松聖や彼に同意する人たちにとって、死傷した障害者は総て赤の他人です。
   
   すでに、2に入っていますが、過去においては、どんな人でも生きる権利がある。生命は平等だという考え方が、ほとんど総ての人の合意だったのだと思います。そんな場合、理由は不要です。圧倒的多数がそう考えて疑いがないのであれば、それは当たり前だ!理由なんていらない!で通っていくのです。しかし、そうではない人、私の支払った税金で訳のわからない赤の他人をなぜ食わさなくてはならないのか、そんなこと私は許せない!という人が増えてくれば、そんなの当たり前だ!では通らないでしょう。
   
   ご著者にもありました。「残酷な「本音」が「建前」を打ち破り・・・「命は大切だ」というような正論を口にする者が「現実を何も分かっていない。・・p7」、大臣ですら「麻生太郎副総理は・・・『たらたら飲んで食べて、何もしない人の医療費をなぜ私が払うんだ』という発言もしている。p13」。
   トランプはメキシコに壁を作りました。欧州も同じです。ドイツを東西に分断した壁は壊されましたが、今やその壁の6倍の長さの壁(難民排除フェンス)が作られているとのことです。無関係の食い詰めた人たちをなぜ我々の富で食わさねばならないのか!ということです。 しかも、これは日本ではまだ表面化していません。なぜなら生命は平等だとか、誰もが生きる権利があるという建前論、大義名分の前に、大声で主張できないからです。
   これは怖いことです。どんどん水面下でそんな人が増えて行っても、表に出ないので多くの人は気が付きません。障害者だけでなく、食べていけない赤の他人の老人を、なぜ無関係の私が食わさねばならないのか!という声が出ています。私のブログにも書いたことがあります。その時は、閲覧数が異常なほどの上昇を示しました。
https://blog.goo.ne.jp/delias/e/421ab697892ff3d433936eebdf8ff324
   
   植松聖は、その美しい大義名分のために影に隠れてものが言えない、今や多数派になりつつある人たちを代表しているのです。だから彼は自分を「指導者」とか「救世主」というのです。人類に恐ろしい潮流が現れています。
   彼は最初は普通の人と同じように調子よく逃げようとしたけれど、今では死ぬことを恐れていないと分かります。最初は彼も人の子で、調子よく、首相や国を頼った。麻生副大臣の発言(p13)からも、彼は自分と同志であり、自分の行為の意味を分かっていると思ったのでしょう。しかし、それは頼りにならないことがわかった。彼らは信念がないのです。そういう発言をしていても、不利だとわかれば主張を変えます。いい加減な人に思い切ったことはできません。思い切ったことができるのは、いい加減な人ではなく、生真面目な人です。真面目であるが故に、絶対的な確信を持つ時です。いい加減な人であれば損得を考えます。真面目で絶対的な確信を持つ人は、何を捨ててもそれが必要だと考えます。最後は自分の命を捨ててもそれが必要だと考えます。「弁護士 雨宮さんから・・・・この瞬間、植松はすごい形相で傍聴席を振り返り、最前列にいた私を・・・。国から一人でやれ・・。p151」これは国と一心同体と思っていた彼の心が破れた瞬間だと思います。つまり、絶対の信頼を置いた首相や国が自分を裏切った。この時に、彼の自制が破れ心が表に出たのです。それがあなたに対する物凄い形相になったのだと思います。
   彼がこの事件を起こすことができたのは、1自分の心を完全に近い形で閉じる才能を持っていたことと、そして2絶対的な確信を持ったことです。
   
   なぜ人の命は平等なのか、なぜ誰もが生きる権利があるのか。その説明をせねばならないと思います。人類にその時が、やってきたのだと思います。それは当たり前だから、そんなことを考える必要がない!で通る時代は、圧倒的多数がそう考えて疑わない時代です。今や人類にとって、その時代は過ぎてしまいました。
   
   相模原障害者大量殺傷事件は、つまりは人間は本来利己的な生き物なのか、それとも利他性を持つのかという問いに収斂します。
   私は、あなたのこのご著書を軸にして、この事件の意味をここまで深めた市民シンポジウムにしたいと思います。
   この相模原障害者大量殺傷事件について、今まであれこれ座談会が開かれたり、多くの有識者があれこれ主張してきました。しかし、その全てが本当の深みにまで到達していないと私は考えます。 現人類社会に訪れた潮流を止め、その流れを穏やかな元の流れに戻せなければ、もはやこの事件を扱う意味がないと思います。以上


(添付資料2) 映画「鬼滅の刃」と利他性について思う

2020年12月24日 日本生物地理学会 森中 定治

   2020年11月25日(水)に東京都立川市でアニメ映画「鬼滅の刃」を観た。劇場版「鬼滅の刃」は、アニメ映画の全世界での興業収益の暫定一位になっていて、実写映画も含めて世界でトップクラス、さらに順位を上げ続けている。いったいこの映画の何が、ここまで人を惹きつけるのだろうか。
   
   映画を観た日は、半分くらいの入りであった。新型コロナのことを考えると客と客の間は相応の距離があるように思った。休日ではなく、また上映開始からかなりの日が経っているためか子どもの姿はなく、代わって20?30代の若いカップルやグループがほとんどだった。60代くらいの男性に手を引かれて、80歳を過ぎたような老女も入ってきた。
   私自身は、人間の持つ利他性という点に強い関心がある。この映画の成功の原因は様々あろうけれど、「利他性」という点がこの映画の成功に寄与した一つの大きな魅力ではないかと思う。
   
   「利他」とは、自分自身の持つパワー(財力、労力、時間など)を利害関係のない赤の他人に注ぎ込み、自分自身の適応度(自己の次世代へ貢献する力)を下げ、一方で赤の他人の適応度を上げることをいう。分かりやすい言葉に言い換えれば見返りを求めない行為、“無償の行為”である。ここに多くの人の心を強く揺さぶり、魅了する何かがあると私は思う。
   
   私の観た映画の中の記憶なので、言葉は不正確かもしれないが、映画の最後の部分に、大きな山場があった。言わばスーパーマンのような役割を演じた最強の炎の剣士にも子どもの頃があり、母がいた。母は、お前はなぜそんな秀でた才能を持って生まれたのかと幼い子に問う。子は考えてみるが分からない。「母上、私には分かりませぬ」と母に答える。母は、その才能は弱いものを守るためにあるのだと子に諭した・・。炎の剣士は自分が守った無限列車の乗客200人に一人の死者も出ていないことを確認し、死の直前に瞼に浮かんだ母に「私はちゃんとやれましたか?」と問う・・。
   
   炎の剣士は、自身の働きに対する自分自身への見返りを全く求めない行為を行なった。純粋な利他行為である。この場面を映画の最後に置いた。なぜこのようなシナリオになるのだろうか? 「そういう人になりなさい」との、この映画を観にきた子ども達への教育なのだろうか? そうではないだろう。人間はこういう行為、こういう考え方に、心が震えるのである。ヒトという種が、心の奥底に純粋利他への憧れを持っていると思う。おそらく原作者もシナリオを書いた脚本家も、彼ら自身がその登場人物に心を盗まれているのだと思う。この心情は一体どこから来るのか。進化学、自然科学で説明がつくのか?ヒトが進化の過程で得た特性なのだろうか?
   
   進化学(自然科学)では、生物の行為は結果として自分に利益が還ってくる行為を行うものでなければ、この世に存在し得ないと考える。伊達酔狂の気分の個体やあるいは一時的な衝動に駆られた個体ではなく、ゲノムの交流を行い得る集団(種あるいは種内の特定の集団)それ自体が、見返りを求めない行為つまり自らの適応度を下げて、他の個体や集団に利益を与える特性を持つとすれば、そんな集団はこの自然界に存在できないと直感的に分かる。親世代の行う次世代への貢献が、世代を重ねる都度減ってゆく生物集団は、早晩消滅することは誰しも理解ができるだろう。
   ゆえに自然科学においては、純粋の利他はこの自然界に存在しないとされる。他人のために尽力し、その結果直接には何も見返りがないように見えても、必ず何かの見返りがある。分かりやすい例えを言えば、互助会のシステムである。葬儀などで急に大金が必要になった時に、全く無関係の他人が自分のためにお金を出してくれる。その代わり自分も一定のお金を他人のために出す。こういう契約が結ばれていれば、自分のお金を安心して無関係の他人に出すことができる。
   自分の適応度を下げて他人を助ける。その代わりに自分が困った時に、他人が助けてくれる。こういう信頼があれば、自分のエネルギーを他人に注ぐこと、つまり自分の適応度を下げることは躊躇なくできる。しかし、これはたとえ他人にエネルギーを割いても、今すぐではないにせよ他人からの見返りを期待した行為であり、一見利他に見えるけれど、実は自分のためつまり利己である。この行為をもっと広く捉えると、互恵関係となる。「情けは人のためならず」という。かけた情けは、巡り巡って自分自身かあるいは自分の子孫、つまりは自分のゲノムにそれが返ってくる。ゆえに、すべからくすべての利他は利己である。
   こういった視点で人間あるいは他の生物を見ている限り、利他性はつまりは利己性であり、純粋利他は無い物ねだりの空理空論であって、せいぜい酔狂な人とか、あるいは一時の衝動に我を忘れた特殊な人のことになる。
   
   では、炎の剣士が死の直前、その目に母が映り、その母に向かって「私はちゃんとやれましたか?」と問う場面に観客の心が鷲掴みにされるのは一体どうしてなのだろう。どうして原作者や脚本家はそのような場面をクライマックスに置くのか? 世界の映画のなかで、なぜこの映画がトップになるのだろうか・・?
   自然科学では純粋利他は存在しない。自分の命と引き換えに200人の乗客を守ったこの炎の剣士には、自分の遺伝子を次世代に継ぐ子はいない。では、この最後の場面における炎の剣士とその母との対話は、自然の法則を無視した夢物語なのか。荒唐無稽のデタラメの作り話なのか。そんなデタラメに、なぜ世界でNo.1になるほど世界中の多くの人間が心を掴まれるのか。
   
   私は、それはこの行為が架空の夢物語ではなく、人間が純粋利他の特性を持つからだと考える。無意識ではあるけれど、普遍的な利他性がヒトの心に宿っているからだと私は考える。それこそが、この映画の最後にこの場面が来た理由であり、この映画が世界でトップに立つ理由だと思う。
    自分の子ども以外の赤の他人に無償のエネルギーを注ぎ込む個体とその系列は、いずれ消えてしまう。自然の法則である。しかし、自分の子どもの中に巣食う赤の他人はどうなのだろうか。
   
   次世代つまり子どもは、自分のゲノムと赤の他人のゲノムの両方が合わさって産み出される。自分の子どもにエネルギーを注げば、同時にまた赤の他人にエネルギーを注ぐことになる。その子どもの持つ他人のゲノムに、自分のゲノムと同じエネルギーを注ぎ込む。自己のゲノムと他人のゲノムがひとつになって個体ができているために、どちらのゲノムにどれくらいエネルギーを注いでいるのか測ることができない。自分の子ども(自分のゲノム)に注ぐエネルギーが他人に注がれている。そして、子どもに愛情を持つ世界中の総ての親が同じことをする。そこに視点を当てると、自分のゲノムにエネルギーを注ぐのと同じに、世界中の人間が他人にエネルギーを注いでいることがわかる。
   
   他人のゲノムが入ることによって、ヒトは遺伝学上の利点が得られる。子を育てれば必ず他人のゲノムにエネルギーを注ぐけれどもその対価として、他人のゲノムによって利益が得られる。ゆえに、次世代を生み出す場合においては、他人のゲノムにエネルギーを注ぐことは利他ではなく利己であるという主張も成り立ちそうだ。では、それによってどれくらい大きな利益を得ているのか。この仕組みが有利に働き自然選択によって、その仕組みを持たない生物つまり無性生殖生物をこの世から駆逐したのか?
   有性生殖生物が、無性生殖生物をこの自然界から駆逐していないことは明らかである。無性の微生物類はこの自然界にいくらでも蔓延っているし、人間は高度に発達した科学力を駆使しても細菌による病気をなくすことすらできていない。ウィルスも一種の生物だと見れば、むろん無性生物である。そのウィルスの一種である新型コロナに苦しめられているのではないのか?
   我々の住むこの地球には、無性生殖と有性生殖の両方を併せ持つ生物も存在する。それが生き物の柔軟さ、多様性であろう。ここでは生物全般について議論しているのではなく、あくまで人間についての議論である。
   こうしてみると、無性生殖生物と有性生殖生物は、単にこの自然界に存続するための生き方(適応するための仕組み)の違いだと考えられる。で、人間について各個人が他人のゲノムによって利益を得ているだろうか。それは明らかとは言えないだろう。私自身はお酒が飲めない(アセトアルデヒド分解酵素を体内で産生できない)けれど、私の子どもはお酒が飲める。これは、他人のゲノムからアセトアルデヒド分解酵素を産生する機能(遺伝子)が加わったためである。このように具体的なメリットが得られる個体もあれば、逆にマイナスの遺伝子が入ってくる場合もあるだろう。判然としない個体もあるだろう。しかし、自分自身の未来を生み出すとき(子どもを作るとき)には、個体は必ず他人にエネルギーを注ぐ。これは疑いがない。他人にエネルギーを注ぐことは絶対であり、一方で利益を得られるか得られないかは判然としない。これを利己と呼べるのだろうか?
   この仕組みによって、人類としては相応の利益を得ているのだろう。しかし、利己とは、自分自身が外部にエネルギーを放出することによって適応度を下げた分あるいはそれ以上が、個体としての自分自身か、もしくは自分自身のゲノムに(自分の子孫)に還ってくることを言う(包括適応度、ハミルトン 1964)。人類それ自体にその利益が還ることは、包括適応度の視点からは利己ではなく利他である。
   子を育むヒトは誰もが一律に、自己のゲノムにとっては損失を負う運命、つまり利他の運命を授けられていると考えられる。 母の我が子への行為は無限の無償の行為である。自分自身の次の世代を守り育み、その結果としてその生物個体(のゲノム)が未来に存続していくが故に、それは自分自身を未来につなぐための、まさに利己的な行為である。しかしその行為を成すとき、結果として他人のゲノムに対しても同時にまた同じ行為をなしている。そちらに視点をおけば利他である。有性生殖生物とは、このような仕組みを持った生物である。母の無償の愛は我が子(=自分の遺伝子)に対してであって、赤の他人に愛情を注いでいることに対してその意識はない。この場合、利他は無意識に、つまり潜在意識下に行われていることがわかる。
   
   あくまで個々の個体に視点をおけば、自分の子どもの中に巣食う他人は、不特定多数の他人ではなく配偶者という特定の他人である。しかし自分個人ではなく、世界中のヒトに視点をおけば、子どもを持つあらゆるヒトが必然的に不特定多数の他人に自分のゲノムと同等に他人のゲノムつまり人類それ自体にエネルギーを注いでいる。ヒトという生物は、そういう仕組みを持っている。ここにヒトの真の姿の一面を見ることができる。
   
   ヒトとは、それぞれの個体をもって完結した完全なものではなく、人類という種の部分である。人類というひとつの個体の部分である。生物は自分自身の複製を生み出すがゆえに、その存在が維持できる。次世代を生み出すとき、ヒトは他の部分つまり異性と融合して次の世代を生み出さねばならない。個人というひとつの個体は、人類というひとつの個体がこの自然界の存在するための、50%の役割を持つ“部分”である。そして次世代を生み出すために必要な残り50%の“部分”は、不特定多数の異性がその役割を担っている。
   しかし部分と言っても、例えば爪や髪の毛や皮膚のような、次世代を生み出す機能に付随するもの、余分になれば捨てればよいものではない。機能として次世代を生み出す力を持つがゆえに人類そのものでもある。人類最後の一人を想像してみればよい。男女に関わりなく、子どもも大人も老人も関係なく、人種にも関係なく、健常人でも病人でも障害者でも、誰であろうと人類そのものである。人類は実際にはその最後の一人で終わるけれども、その最後の一人も次の世代を生み出す機能を有するがゆえに人類そのものである。ここに我々が理解すべき、ヒトの生物学的な2重性が存在する。
   ヒトの持つこの2重性については、「生物の種とは何か」というテーマで過去に幾らか論じた。従ってその説明はここではしないが、生物の“種”の意味についての考察が、単に学問の世界の話ではなく、ヒトの持つ利己生と利他性にバインドしており、人間社会のあり方に深い意味を持ち大きな役割を演じている。
   
   親は、我が子を育てるためにエネルギーを注ぎ他人を育てる。その子もまた、自分自身を未来に継ぐためにエネルギーを注ぎ他人を育てる。人類という種がもつこの仕組みから、純粋利他が生じると私は考える。親は我が子に無償の愛を注ぐが、その無償の愛は無意識下で他人にも注がれている。これは有性生殖生物の宿命であるけれども、それを理解できる生物は、他の有性生殖生物にはない大きな頭脳を授かった人間だけである。
   
   純粋利他は、自己の適応度を下げ、他者に利益を与えるがゆえに、この自然界には存在し得ない。進化学(自然科学)ではそう考える。純粋利他は有性生殖生物であることとバインドしているがゆえに、消滅することはないと考える。
   
   しかし上述したように、この純粋利他は人間の明示的な意識にはない。顕在意識上では、ヒトはあくまで個々の個人が単位である。個々の個人は独立しており、自己の意志を持っていて、それで行動するからである。人類はひとつであって、個々の人間はその部分であるという意識は、顕在意識ではなく潜在意識下にある。しかし、それは厳然と存在する。炎の剣士が「私はちゃんとやれましたか?」と問うた相手は自分の母であったが、同時にまた人類それ自体でもあった。子の母への問いかけは同時に、一つの人類に対するその部分の問いかけであった。個別の私人としての母と子ではなく、総てのヒトに共通する潜在意識であった。それゆえに、この場面を観た多くの人が明示的な理由なく心を揺さぶられ、多くの人が目に涙を浮かべ、そして世界でトップの映画になったのだと私は思う。
   
   現代を生きるほとんど誰もが、戦争などしたくないと思うだろう。しかし人間は今まで、戦争をやめることはできなかった。今のままであれば、これからも戦争をやめることはできないだろう。戦国時代は、刀、槍、弓矢で戦った。それで人は死ぬが、百年も経てば元に賑わいに戻った。それはなぜか。自然が破壊されていないからである。刀、槍、弓矢では人間は自然を破壊することができなかった。科学の進歩は自然を破壊し、人間が住めない地に変えてしまう。ほとんどの人が戦争は嫌だと思いながら、なぜやめることができないのか。戦争は嫌だという表に出た感情だけだからである。ヒトはどういう仕組みを持っているのか。戦争は嫌だという感情をなぜ誰もが持つのか。それを明示的に理解する必要がある。
   人類は、対立を非暴力で排除する方法を、見つけなければならない。生物学(自然科学)が、なぜ戦争を誰もが嫌うのか、その本当の理由を教えてくれる。それ無くして、何も知らずただ戦争は嫌だと繰り返すだけでは、未来永劫戦争をなくすことはできないだろう。
   ヒトは生物であるが故に、生物であるという桎梏から離れた人間社会を作り出すことはできない。すでに人類がこのような理解に至った以上、自然科学者が、社会学者と同じように人間社会のあり方に関係に深く関わる必要があると思う。自然科学者が、自分の研究成果と人間社会の在りようを併せて考えなければ、学問は死んでいるのと同じだと思う。これからは、人間社会の在りように、自然科学(生物学)が深く関係していくことが必要だと私は思う。
   
   我々人類は、個人が競争に打ち勝ち生き抜かなければならないと、今だけ、金だけ、自分だけという現実だけに視点を当てる顕在意識と、同時にまた他人のために生きることに真の幸せがあるという潜在意識を持つ。そしてその両者が自分のなかでせめぎ合う。
   現代においては、世界中でこの顕在意識が非常に強くなっていると私は思う。隠れている意識、潜在意識を陽の当たる場所に出す必要がある。潜在意識を明示的に理解し、現在の人類を支配する顕在意識と並列に置かねばならない時が、人類に来ていると私は考える。(以上)

登壇者略歴(あいうえお順、敬称略)



   雨宮 処凛(あまみや かりん)
   
   1975年、北海道生まれ。作家・活動家。フリーターなどを経て2000年、自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版/ちくま文庫)でデビュー。06年からは貧困問題に取り組み、『生きさせろ! 難民化する若者たち』(07年、太田出版/ちくま文庫)はJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。 著書に『「女子」という呪い』(集英社クリエイティブ)、『非正規・単身・アラフォー女性』(光文社新書)、『ロスジェネのすべて 格差、貧困「戦争論」』(あけび書房)、対談集『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』(大月書店)、『相模原事件裁判傍聴記 「役に立ちたい」と「障害者ヘイト」のあいだ』(太田出版)など多数。
   
   幾島 淑美(いくしま よしみ) >
   1942年、富山県剱岳のある上市町生まれ。子どもの時の空襲体験によって、大きな影響を受けた。1964年結婚のために上京。終の住処である東川口の綾瀬川端に住居を構え、3子を育てる。高度成長期の終わる1977年頃から15年にわたって日本全国で水質ワーストNo.1だった綾瀬川。「川は地球の血管、水は血液」と考え、“綾瀬川を愛する会”を立ち上げた。環境省より、全国12人の浄化槽フォーラム理事に任命され、マレーシアで開催された世界水フォーラムアジア大会に出席、自分自身の体験を述べた。2015年、日本水大賞を受賞。
   
   岡ノ谷 一夫(おかのや かずお) 1959年、栃木県足利市生まれ。東京大学教授。略歴慶應義塾大学文学部卒業後、1983年より米国メリーランド大学心理学研究科に留学。1989年、同大学より生物心理学分野でPh.D.を取得。同年帰国し、上智大学、農林水産省、慶應義塾大学で博士研究員として神経科学、行動生態学、生物心理学の研究に従事。1994年より千葉大学文学部行動科学科助教授として、動物心理学の研究を推進する。2004年より理化学研究所脳科学総合研究センターチームリーダーとして世界で初めての生物言語学研究室を設立。2010年より現職にて生物心理学研究室を設立運営。これまで、ERATO岡ノ谷情動情報プロジェクト総括(2008-2014)、文科省新学術領域「共創言語進化学」代表(2017-2023)など大型研究を率いてきた。趣味はルネサンス・バロック期の楽器であるリュートの演奏。 著書に『言葉はなぜ生まれたのか』、『脳に心を読む』などがある。

   小田 亮(おだ りょう)
   1967年、徳島県生まれ。名古屋工業大学 大学院工学研究科 教授。1991年東京大学理学部卒。1996年東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。博士(理学)。京都大学霊長類研究所教務職員、名古屋工業大学講師、准教授を経て現職。専門は自然人類学・比較行動学。霊長類を対象に心と行動の進化について研究している。主な著書に「サルのことば」(京都大学学術出版会、1999年)、「約束するサル」(柏書房、2002年)、「ヒトは環境を壊す動物である」(ちくま新書、2004年)、「利他学」(新潮選書、2011年)他。翻訳書に「乱交の生物学」(ティム・バークヘッド著、新思索社、2003年)、「ヒトはどのように進化してきたか」(ジョーン・シルク、ロバート・ボイド著、ミネルヴァ書房、2011年)他。

   蒲生 康重(がもう やすしげ)
   1973年、東京生まれ。1997年東京農業大学農学部農学科を卒業後、青年海外協力隊 平成9年度1次隊隊員(職種:園芸作物)としてインドネシア共和国に1999年7月まで赴任。帰国後、2000年より東京農業大学大学院農学研究科農学専攻博士課程に入学し、2005年に農学博士を取得。大学院では、マダガスカルの乾燥地の植物を研究する傍ら、マダガスカル南部の森林保全活動を行う、日本のNGO団体 ボランティアサザンクロスジャパン協会の活動に参加する(2015年まで)。2017~2019年 東京情報大学総合情報学部総合情報学科 嘱託助教として学芸員課程を受け持つ。現在、一般財団法人 進化生物学研究所 資源植物研究室 研究員、および東京農業大学学術情報課程 (学芸員課程) 非常勤講師。日本生物地理学会では庶務幹事長を務める。

   斎藤 環(さいとう・たまき)
   1961年、岩手県生まれ。1990年、筑波大学医学専門学群 環境生態学 卒業。医学博士。爽風会佐々木病院精神科診療部長(1987年より勤務)を経て、2013年より筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。また、青少年健康センターで「実践的ひきこもり講座」ならびに「ひきこもり家族会」を主宰。専門は思春期・青年期の精神病理、精神療法、および病跡学。 著書に「文脈病」(青土社)、「社会的ひきこもり」(PHP研究所)、「ひきこもり文化論」 (紀伊國屋書店)、「生き延びるためのラカン」(ちくま文庫)、「ひきこもりはなぜ『治る』のか?」(中央法規出版)、「世界が土曜の夜の夢なら」(角川書店)、「ひきこもりのライフプラン」(畠中雅子との共著)岩波書店、「オープンダイアローグとは何か」(医学書院) など。訳書にヤーコ・セイックラ他著「開かれた対話と未来」(医学書院)がある。 『関係の化学としての文学』 (新潮社)で、2010年度の日本病跡学会賞を受賞。 『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』(角川書店)で2013年に第11回角川財団学芸賞を受賞。『心を病んだらいけないの? うつ病社会の処方箋』(新潮選書)で2020年に第19回小林秀雄賞を受賞。
   
   篠田 博之(しのだ ひろゆき)
   1951年、茨城県生まれ。一橋大卒。昭和56年より月刊誌『創』(つくる)編集長。57年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞のコラム「週刊誌を読む」の連載も担当し、北海道新聞や中国新聞にも転載されている。他に日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長、東京経済大大学院講師。著書『ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他。専門はメディア批評だが、幼女連続殺人事件の宮崎勤元死刑囚や和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚を長年取材したほか、オウム事件の首謀者、麻原彰晃の三女ら事件当事者の手記を『創』に掲載している。
   
   藤井 聡(ふじい さとし)
   1968年、奈良県生まれ。京都大学大学院工学研究科(都市社会工学)教授。京都大学工学部卒、同大学院修了後、同大学助教・助教授、スウェーデンイエテボリ大学心理学科研究員、東京工業大学助教授・教授を経て、09年より現職。また、11年より京都大学レジリエンス研究ユニット(15年から実践ユニット)長。専門は経済政策、都市計画等の公共政策論、社会心理学、認知心理学。2012年から2018年まで安倍内閣内閣官房参与(防災減災ニューディール担当)、2018年より言論誌「表現者クライテリオン」編集長。計量経済学研究について98年土木学会論文奨励賞、行動的意思決定研究について05年日本行動計量学会林知己夫賞、村上春樹文芸評論について06年「表現者」奨励賞、社会的ジレンマ研究について03年土木学会論文賞、07年文部科学大臣表彰・若手科学者賞、09年日本学術振興会賞、進化心理学研究について09日本社会心理学会奨励論文賞等、受賞多数。著書に『社会的ジレンマの処方箋:都市・交通・環境問題のための心理学』(ナカニシヤ出版)、『なぜ正直者は得をするのか』(幻冬舎新書)、『公共事業が日本を救う』『列島強靭化論』(共に文春新書)など多数。東京MXテレビ「東京ほんまもん教室」、朝日放送「正義のミカタ」、文化放送「おはよう寺ちゃん」などに解説者としてレギュラー出演中。
   
   松尾 匡(まつお ただす) 1964年、石川県生まれ。神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。立命館大学経済学部教授。専門は理論経済学。著書に『商人道のスゝメ』(藤原書店)、『自由のジレンマを解く』(PHP研究所)、『左翼の逆襲』(講談社)、『資本主義から脱却せよ』(光文社、井上智洋、高橋真矢との共著)など。2012年度後期に九州大学数理生物学研究室に内地留学し、社会規範の進化論モデル分析を研究している。
   
   宮台 真司(みやだい しんじ)
   1959年、宮城県生まれ。社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。大学院大学至善館特任教授。「オウム事件真相究明の会」呼びかけ人。 著書に、『権力の予期理論 了解を媒介にした作動形式』(勁草書房)、『制服少女たちの選択』(講談社)、『透明な存在の不透明な悪意』(春秋社)、『これが答えだ! 新世紀を生きるための100問100答』(飛鳥新社)、『野獣系でいこう!!』(朝日新聞社)、『自由な新世紀 不自由なあなた』(メディアファクトリー)、『14歳からの社会学 これからの社会を生きる君に』(世界文化社)、『日本の難点』(幻冬舎新書)、『宮台教授の就活原論』(太田出版)など多数。
   
   森 達也(もり たつや)
   1956年、広島県生まれ。映画監督・作家・明治大学特任教授。1980年代前半からテレビ・ディレクターとして、主に報道とドキュメンタリーのジャンルで活動する。1998年にドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリンなど世界各国の国際映画祭に招待され、高い評価を得る。2001年、続編『A2』が、山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞する。同時期に執筆も始める。主な著書は、映画撮影の舞台裏を描いた『A』『クォン・デ』『死刑』(角川文庫)、『A2』(現代書館)、『放送禁止歌』(光文社知恵の森文庫)、『下山事件』『東京番外地』『チャンキ』(新潮社)、『王さまは裸だと言った子供はその後どうなったか』(集英社新書)、『ぼくの歌・みんなの歌』『自分の子どもが殺されてから言えと叫ぶ人に訊きたい』(講談社)、『死刑』、『オカルト』『FAKEな平成史』(KADOKAWA)、『虚実亭日乗』(紀伊国屋書店)、『たった一つの真実なんてない』(ちくまプリマー新書)、『人間臨終孝』(小学館)、『虐殺のスイッチ』(出版芸術社)、『ニュースの深き欲望』(朝日新書)など。また共著も姜尚中や池上彰との対談『戦争の世紀を超えて』(集英社文庫)、『これだけは知っておきたいマスコミの大問題』(現代書館)など多数。
   2011年に『A3』(集英社)が講談社ノンフィクション賞を受賞。2012年にドキュメンタリー映画『311』、2016年に『FAKE』を発表。2019年11月に公開された映画『ⅰ~新聞記者ドキュメント』は公開前に東京国際映画祭日本映画スプラッシュ部門で作品賞を受賞し、公開後はキネマ旬報ベスト・テン文化映画ベストテン第1位、および日本映画ペンクラブ賞文化映画部門2019年でベスト1に選ばれた。 近著は『U 相模原に現れた世界の憂鬱な断面』 (講談社現代新書)、『定点観測 新型コロナウイルスと私たちの社会』(論創社)など。
   
   森中 定治(もりなか さだはる)
   1949年、三重県四日市生。生物学者(農学博士)。日本生物地理学会会長、綾瀬川を愛する会代表。趣味:声楽(テノール)、定年後始め2019年、ウィーン・オペレッタコンクール愛好家シニア第1位、2020年東京国際声楽コンクール愛好家シニア第2位、民間企業に勤めるも、ライフワークの生物学を生かし、チョウを材料とした分子生物学研究にて、2003年名古屋大学で博士号取得。2003年より日本生物地理学会会長に就任。学会と一般社会をつなぐ試みとして市民シンポジウム「次世代にどのような社会を贈るのか?」を継続して企画実施、人間とは何か、人間社会のあり方について様々な学識者と対話し、生物学と哲学が深く結びつき、人間の行動(生き様)の原点をなすことを学んできた。単著に『プルトニウム消滅!脱原発の新思考』展望社(2012)。共著に『埼玉蝶の世界』埼玉新聞社(1984)、『チョウの生物学』東京大学出版会(2005)、『現代を生きる安藤昌益』お茶の水書房(2013)、『熱帯アジアのチョウ』北隆館(2015)、『ふしぎのお話365』誠文堂新光社(2015)他。
   
   

一般発表



東アジアにおける沿岸性海洋生物の種分化と地史



横川 浩治(香川県多度津町)


   東アジアの沿岸に棲息する海洋生物には広範囲にわたって分布する種が多いが,従来,単一種とみられていたものが実は高度に分化した複数種を含む事例がいくつか報告されている.
   中国産の“スズキ”は体側に多くの小黒点があることで特徴づけられるが,日本産のものとの形態的および遺伝的差異を調べた.外部形態については,いくつかの形質において両者に大きな差異が認められ,特に計数形質の相違が顕著であった.アイソザイム系遺伝子による両集団間の遺伝的距離は0.178となり,種間の水準に達していた.これらの形態的および遺伝的相違により,中国産のものはスズキとは別種であることが明らかとなった.
   また中国産の“アカガイ”について,日本産のものとの形態的,遺伝的差異を調べたところ,殻の形態では両者に大きな差異が認められ,特に放射肋数と殻重量指数は明瞭に相違した.アイソザイム系遺伝子による両者間の遺伝的距離は0.108と大きく,日本産と中国産の遺伝的独立性が示唆された.これらの形態的,遺伝的相違により,中国産アカガイは日本産アカガイとは別亜種または別種と考えられた.
   これら2例におけるそれぞれの系統の地理的分布バターンは共通しており,朝鮮半島の南西端を境にして,それより西側には中国の系統が,東側には日本の系統が広く分布し,明瞭な地理的棲み分けがあることがわかりつつある.さらに,チュウゴクモクズガニとモクズガニの分布バターンもこれらの事例と共通する.このような明瞭な地理的棲み分けが生じた要因については,氷河期に東シナ海に何度か形成されたと考えられる巨大な閉鎖的水域が地理的障壁となって中国の系統と日本の系統に分化し,間氷期に海面が上昇した後も繁殖期が異なるなどの生殖隔離機構が維持されている可能性が考えられた.
   ところでスズキについて,中国の系統と日本の系統の分布の境界域である朝鮮半島南西端に位置する韓国の木浦産サンプルのアイソザイムを調べたところ,両系統間に相互の遺伝子流入がある可能性が示唆された.また日本の有明海と八代海のスズキについて調べたところ,中国の系統の遺伝的影響を強く受けていることが判明したが,これは,日本と中国の系統が種分化した後に,地殻変動,気候変動等によって両者の大規模な混合が生じ,広い範囲で交雑集団が形成され,その一部が現在でも有明海と八代海に隔離されている可能性が考えられた.
   このように,東アジアの沿岸に棲息する海洋生物のいくつかは,過去の地質学的イベントと深く関連して種分化を遂げ,現在の分布パターンが成立したと考えられる.同様に,他の広域分布性沿岸海洋生物でも同じメカニズムで種分化をしている可能性が強いので,その解明に向けて多くの種について今後の研究が期待される.


NIKONで撮りました:記載分類論文のMaterial & Methods



千葉秀幸(ビショップ博物館)


   演者はチョウの記載分類論文の査読を頼まれるたびにずっと気になっていることがあった。これは「種問題論争」での「分類は恣意的である」という進化生物学者からの指摘に対してなんとか対抗できないものかと常々思案してきたこととも関係している。
   2015年からは学術誌Zootaxa(この雑誌名はズータクサではなくズウォタクサと発音する)のチョウ担当Subject Editorになったが、年に20本程度の原稿が送られてきて、そのあることがますます気になってきた。それは、記載分類論文のMaterial & Methods(材料と方法)に何を書くべきか、ということだ。実験科学の場合、M & Mはその実験の再現性を保証しなければならないが、記載分類においても、もしM & Mを書くならば、それに準じたものでなければならないはずだ。しかるに、現実はそれとは程遠い。おそらく、「書くことがない」「分類の論文にM & Mは必要ないけれど、形式上だけ」と考えている分類学者が少なくないと演者は考える。
   Material(材料)のほうはほとんど問題ない。その論文で使われた標本がどこに所蔵されているかが書かれていれば探し出すことができる。標本が個人コレクションに収められている場合や、公的機関でも場所によっては現実にその標本を実見することを断られることもありうるが、それはもちろん著者の責任ではない。
   一方、Methods(方法)についてはほとんど何も書かれていないか、再現性とは全く関係のないカメラの機種や(昆虫の分類では重要な形質である)交尾器の処理の仕方が書かれている。分類が恣意的と言われる原因のひとつは、このM & Mのお粗末さにあるのではないか。
   M & Mで種の「操作的定義(operational definition)」が提示されていれば、どういう場合に種と扱うのかが客観的に決まるので再現性が保たれる。もちろん、その概念の妥当性は別問題である。演者自身は、この点をはっきりさせたM & Mを書いてきたと自負する。査読の際に、この操作的定義を著者に問うのだが、返事は実に心許ないものが多いのが実態である。


多様化する衛生動物とヒト・飼育動物の健康問題



浅川満彦(酪農大・獣・医動物) 


   アフターコロナが喧しい。中身は経済対策に軸足が置かれる。しかし、第二、第三のCOVID-19のような感染症は新興・再興するとして準備をしておく必要があろう。
   感染症あるいは病原体伝播の効果的な予防・制御の基本的な手段は(輸入)検疫と防疫に大別される.たとえば,厳格な人的管理下にある家畜・家禽や飼育の歴史が深い愛玩動物では,両手段のコンビネーションで一定効果をあげてきた.しかし,野生動物および飼育の歴史が浅く野生種に近い動物(エキゾチック動物)などの多くが法制度に基づく検疫対象ではないこともあって,病原体の顕在化や感染症の発生の場合,制御の手段は防疫に委ねられる.
   ここでは,獣医学領域で問題視される感染症対策で用いられる防疫手段を参考に(浅川, 2021),野生動物およびエキゾチック動物が関わる感染症(寄生虫病を含む)あるいは病原体(寄生虫を含む)伝播の効果的制御手段の現状と今後について(衛生昆虫・ダニ類を除く)衛生動物学の観点から省察する.

【文献】浅川満彦. 野生動物医学への挑戦-寄生虫と感染症, 東京大学出版会(2021).
連絡先:askam#rakuno.ac.jp (#は@に)


シンポジウム「南極の生物地理学」


【講演要旨】

南極大陸セール・ロンダーネ山地の地衣類


田留健介    埼玉県自然学習センター/第61次日本南極地域観測隊

   第1次南極観測隊には、生物担当の隊員は編成されていなかった。しかし、同隊は露岩や砂地に生育していた藻類、地衣類、コケ類を採集して持ち帰ってきており、南極の基礎研究のためには生物調査が必要と指摘した。そこで、2次隊の夏隊、5次隊の越冬隊から昭和基地周辺の本格的な生物調査が始まった。その後、多くの研究者によって、ペンギンをはじめとする海鳥の生態解明が進み、草木も生えない極限環境の露岩域においても多種多様な地衣類やコケ類が生育していることが分かった。
   第61次南極地域観測隊 夏隊では、昭和基地から600㎞離れた東ドローニングモードランドのセール・ロンダーネ山地での陸上生物調査が計画された。これは、国立極地研究所の一般研究観測「南極陸上生態系における生物多様性の起源と変遷」の一環として位置づけられている。同山地において、土壌微生物、地衣類、コケ類の採集を行い、得られたデータと、昭和基地周辺を含むエンダービーランドのデータを比較し、陸上生物相生成過程を考察することを目的としている。演者は同山地で、地衣類の生物多様性解明を目的とした調査を行った。
   地衣類は砂漠、高山、熱帯雨林、海岸、北極圏、南極圏といった様々な環境に適応し、世界中に分布している菌類である。世界で約2万種、日本では約1800種が確認されている。南極では約430種の地衣類が記録されており、地域ごとに種組成が大きく異なるとされている。昭和基地周辺では約60種が確認されているが、東ドローニングモードランドの同山地では未調査の地域もあり、どの種が、どれくらい生育しているかは不明であった。
   本講演では、セール・ロンダーネ山地で採集したものと、昭和基地周辺で記録がある地衣類についてお話ししたい。また、南極の沿岸・内陸における地衣類の分布に海鳥が関わっていると思われることや、近年研究がすすんでいる生物地理的研究についてもお伝えしたい。

ペンギンだけじゃない -南極と周辺域の鳥たち-


林健太郎   農研機構・農業環境研究部門/第58次日本南極観測隊夏隊

   南極に鳥がいると言っても多くの人は驚かないだろう.何しろペンギンがいる.老若男女を問わずに大人気の愛らしい生き物である.ただし,南極大陸に通年生息するペンギンはコウテイペンギンとアデリーペンギンだけである.他の種は南極付近の島嶼を中心に分布している.一部は寒流に乗って北に分布を広げ,遂には赤道をわずか北に越した地に到達した.ガラパゴスペンギンである.
   実のところ,周辺域を含めて,南極には他にも多様な鳥たちがいる.講演では(ペンギンはもちろん)彼の地の様々な鳥たちを紹介したい.外周の海域では多様なアホウドリが見られる.現世鳥類で翼開長最大種のワタリアホウドリは壮観である.多種のミズナギドリやクジラドリも見られる.南極に近づき氷山があらわれるようになると,多種のフルマカモメが出てくる.目・嘴・肢の黒を除き真っ白なユキドリ(シロフルマカモメ)はとても美しい.そして,夏場であればペンギン以外にも南極大陸で営巣する鳥がいる.空を飛べる鳥にとって大陸を利用するメリットは大きい(ペンギンは泳ぎを優先して飛ぶことをやめたが,代わりに体を重くして構わないから越冬できるだけの栄養を蓄えられる).捕食者がいない所まで飛んでいって営巣できるからだ.しかし,次にはそういった鳥を食べる鳥がやってくる.
   南極大陸の捕食者の頂点はオオトウゾクカモメである.陸に上がってくるアザラシやオットセイもいるのだが,彼らは陸上のものを捕食しない.オオトウゾクカモメは縄張り意識が強く,人が相手でも滑空して突っ込んできて追い払おうとする.水かきの肢で叩かれてもさほど痛くないが,臭いが取れない落とし物の爆撃は要注意である.
   南極に棲む鳥たちを支えているのは「海」である.海の生き物が多くの鳥たちの餌となり,その鳥を食べる鳥も支えている.また,こういった鳥たちは,海の栄養塩を陸域生態系に運ぶ役割も担っている.



























【会員の写真】   左欄の写真は、クリックすると拡大します。